北条 民雄

北條民雄(ほうじょう たみお)

北条 民雄

人は何と言うか僕は知らぬ。 」 「外へ出ていつたつて、ろくなことないに定つてるさ。 誰でも癩になった刹那に、その人の『人間』は亡びるのです。 さて、小説「」。 東條には表現世界よりも、そのような行為を嬉々として遂行する能力があった。 [宗像和重] 『『定本 北条民雄全集』全2巻(1980・東京創元社)』. それは一般の私たちには想像を絶する過酷さだからだ。 成熟化した自我の内実は、他者を分け隔てない視線で観察し、偏見のバイアスを削り取った観察眼が吸収した曇りのない視座の内に、名もなき若い作家の、鮮度が高いが、しかし人間の根源的問題に言及した作品を評価し、それをバックアップする誠実な振舞いによって検証されたのである。 それは生涯消えることのない烙印であつた。 【内容情報】(出版社より) ハンセン病療養所での隔離生活という極限状況で創作されたすべての小説(完成作品)を中心に、川端康成や中村光夫と交わした数多くの書簡、一部の未完小説と随筆も収録。 わずか3年余りの作家生活。 」と野村は重い返事をすると、仕方なく立上つて、自分の顔と向き合つて一二尺の眼前に近寄つてゐる女の顔に、「帰つて寝みなさい。 ははあさては紋吉だな、とその声によつて判断すると、彼は引返さうかと瞬間思つたが、なあに構やしないと、そこに立つて相手の出て来るのを待つた。 そしてここに至ることは最早以前から予想されていることではないか。 なるほど二つ並べて見ると、自分でも驚くほど似ていた。 それ以外に方法がないと思って、心を鬼にして子供たちを引き離したのだと思います。 (因みに、本稿が、多くの長い引用・参考文献を活用させてもらっている事実を了承されたい。 本書は、そんな彼、ペンネームとハンセン病者であったという以外は謎に包まれていた北条民雄の生涯を描いたドキュメンタリー。 それが彼の最後の言葉であった。 ただ一度出版社の人がこの文章のことを言い出し、私は読んでいると答え、 『少し大人気ないですね』 『全くそうですよ。 (新字旧仮名、作品ID:2531)• [|]• 右隣の李さんの如きは全身だらけで、文字通り満身創痍だ。 収録:小説 いのちの初夜, 間木老人, 癩院受胎, 吹雪の産声, 癩家族, 望郷歌, 道化芝居, 青春の天刑病者達, 癩を病む青年達 , 掌編・童話 童貞記, 白痴, 戯画, 月日, 可愛いポール, すみれ , 随筆 癩院記録, 続癩院記録, 発病, 発病した頃, 猫料理, 眼帯記, 柊の垣のうちから, 烙印をおされて , 書簡 川端康成との往復書簡(九十通), 中村光夫宛(六通), 五十嵐正宛(一通), 東條耿一宛(四通), 光岡良二宛(一通), 森信子宛(一通), 小林茂宛(五通) , 解説 , 年譜 計盛達也 全集 [ ] 創元社(1938年) [ ]• 彼を見い出し、世に送り出したのは川端康成。 今では、昔、ハンセン病の血統と言われないように、また世間からつま弾きされないようにと、あれほど親や兄弟に気兼ねしたことが夢のようです。 )卵、キリ、マヨネーズ、で炒めました。 そして彼女は晴やかな笑ひ声を立てると、 「ね、歩かない?」 となまめいた調子で言つて、腰をかがめて野村の横顔を覗き込むのであつた。 当時、まだ30代の作家ながら、1920年代から30年代にかけ、この国の文化フィールドを席巻したプロレタリア文学と一線を画す、新感覚派の文学潮流の内にあって、既に「伊豆の踊子」や「雪国」を上梓していて、その名は彼が関わる全生園の医師、癩患者の中で知らぬ者がいなかった。 この手紙も完全に消毒がしてありますから、と書き添えて。 『わたしはその手紙を読んで涙がでました。 (新字旧仮名、作品ID:46899)• 大正15年生まれで、10才で保養所に入所した人、ハンセン病の両親から療養所で生まれ、実家や親戚のことは何一つわからない人、日々の暮らしに精いっぱいで進学することが考えられなかった人、子どもを産んでもすぐ施設に引き取ってもらった人、二十歳で入所し信仰にすべてをかけた人、一度は完治し普通の生活を営むも夫のハンセン病再発でもう一度入所した人。 瞬間野村は、僕と一緒に死んでくれるかい?と言ひたくてしやうがなくなつて来たが、水江に向つてこんな気持を起すことがどんなに馬鹿げたことであるか、と思ひ返して、腕をのばして葡萄の房を一つもぐと、それを食べながらふらふらとした足どりで歩き出した。 しかし、中には障害や難病を乗り越えることが出来ない人もいるだろう。 福西は強制隔離された女性の生の声を聴きたかった。 読了した今になって、もっと早く手にできなかったものか、悔いが残る。 補助寝台を開けると、たいていの病人が急に力を落としたり、極度に厭な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期していたのか、目の色一つ動かさなかった。 (注1)「らい病」を漢語で呼ぶようになったのは明治以降で、江戸時代以前は一般的に、不完全な姿で座っている者を意味する「片居」から、「かったい」と称されていたと言われている。 東條耿一 その若者の名は、東條耿一(こういち)。 『出来ます!』 兵衛は強い声で言った。 一人の人の言葉で、他の一人の人を悪く思うことなど、大抵の場合不可能で、また阿呆らしかった。 驕慢に自己を守らなければ所詮作家の成長など覚束ない。 が、その時ちらりと紋吉の姿が頭をかすめ、霧の中に消え去つた水江にびつくりして叫んだ「ありや。 これが萩原朔太郎とか志賀直哉みたいな顔なら更に萌えたのに コラ。 それは殺されたのだ。 (新字旧仮名、作品ID:46971)• (新字旧仮名、作品ID:46893)• 昭和11年、「いのちの初夜」を「文学界」に発表し「文学界賞」を受け多くの作品を発表するが、翌年(1937年)、腸結核で24歳の生涯を閉じた。 高山は58年生まれ。 18歳で発病しわずか23歳で短い人生を閉じました。 棄てたんじゃないか』 肉親に譲らず、他人の私に譲ると遺言した作家が、私はあわれであった。 親にしてみれば、療養所に入れた子供から、病気でない子供たちを守りたかったのだと思います。 (2017.04.13) iirei. 青年はいても立ってもいられない気持ちだ。 最後に、私の胸を深々と打つ感銘深い、川端と北條の出会いに関する貴重な報告があるので、それを前掲書から拾っていくことで本稿を閉じたい。 私に対する感謝からばかりではない。 」 「あんたはわたしの気持が判らないのよ。 に書簡を送って原稿の閲読を乞い、以降は川端に師事する。 「おまえは業が深い」と言われ、父親から癩者になったことを呪われる人格には、戻る場所が存在しない人生を意味するのである。 彼が「いのちの初夜」を読んだのは1978年。 痰を詰まらせて悶え狂う断末魔のあえぎ…」(北条民雄『重病室日記』から)。 そして、3人目の人物の名は、川端康成。 生命そのもの、いのちそのものなんです。 「芥川賞を取らなかった名作たち」で、同作品を取り上げたなかにこちらがあったので読んでみた。 (新字旧仮名、作品ID:46891)• 「やあ、野村さんですか、今晩は。 怪しむにも咎めるにも足りなかった。 (新字旧仮名、作品ID:46896)• (2017.04.14) @木の芽豆腐 伸び始めた山椒の葉=をトッピングして冷奴を食べました。 (新字旧仮名、作品ID:46972)• 」 と言つて、馬のやうに足先でこつこつと土をほじつた。 作者の北条民雄は癩病患者で、23で亡くなってしまいます。 葉は一枝を豆腐半分に刻んで掛けました。 昨年の盆と同じように、やはり今年も涼しい(略) 東條は突然僕に、自殺の決意を告白する。 それをひとつひとつ拾ってゴールインするんですね。 ただひとり直系の祖父は、白内障におかされて盲目に。 棚からぶら下つた葡萄の房々が頭にころころとあたるのにも彼は気づかず、じつとその風景に眺めいつた。 こつそりと隠れた水江のゆらめいた着物のすそが浮んで来ると、彼はちえッと舌うちをし、紋吉に向つて言つた自分の言葉の一つ一つに嫌悪を覚えるのであつた。 それが、新人発掘の才能を遺憾なく発揮した事例の象徴とも言える、「癩の作家」、北條民雄の「発見」であった。 早くから文学に関心を持ったが、入院後本格的に創作を開始した。 どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。 固い寝台の上で読んでいくうちに、信じられない異常な世界に頭がくらくらし、いつしかすがりつくように読んでいる自分に気づいた、という。 びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。 のみならず、彼の現身は人知れず生き、人知れず死に、ただ彼の作品だけが人々の世に現れているとしておいてやりたかった。 余程肩肘張っていなければ崩折れてしまう。 柳田邦男氏も「10年に一作の秀作」と絶賛。 川端さんに会って、この危機を越えようという気持ちがあったかもしれない。 と云うのである。 「あの時は楽しかったなあ」「あの時の自分は最高だった」 その感情が潮の満ち引きのように迫ってくる時、大抵は現実に打ちひしがられている自分を直視するのが辛い時である。 物悲しい、といってしまえば、志賀直哉にくみする人間ということになるのかな. 3 北條民雄 [著] 講談社 2015. 川端康成(1917年・ウイキ) 結局、川端少年は母の実家に引き取られることになり、早くから、その境遇の寂寥感を文学への没頭によって紛らしていたように思われる。 「癩は天刑である 加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるいは呷吟(しんぎん)しながら、私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。 想像をはるかに超える苦しみや痛み、生きることに対しての切実な嫌気。 それが川端康成であり、川端康成という広い奥行きを持つ自我の、稀に見る誠実な振舞いの実態であった。 了簡が狭いと思ひますね。 それが、彼のアイデンティティの防衛戦略だったのだ。 また川端は北条が亡くなった時、編集者と二人で全生園を弔問している。 林氏の隣家だ。 」 この物言いは単純で明けっ放しな響きを持っていた。 『北條民雄小説随筆書簡集』〈〉、2015年10月。 【内容情報】(「BOOK」データベースより) かつて万人恐怖の病であったハンセン氏病に冒され、二十四年の短い生涯を癩院で終えた天才作家北条民雄。 そしてその思いはその後ずっと成瀬にある不安なものを植えつけたのだった」(「定本 北條民雄全集 上巻」『癩院受胎』) 「肉体を捨てることです」と、北條民雄は小説の重要な登場人物に語らせている。 (新字旧仮名、作品ID:46903)• 本書の著者、福西征子は昭和53年からおよそ35年にわたって4つの療養所で医師あるいは所長として勤務してきた女性医師である。 『いのちの初夜』創元社〈創元文庫 A 第35〉、1951年10月。 (新字新仮名、作品ID:359)• だから、他者と関わってもそれを失うことの怖さから、他者との適切なパーソナルスペースを確保するに足る距離感覚を大切にし、それを実践する慎重な人格を構築していったように思われる。 ・・・タイトルからして中河与一の『天の夕顔』のようなものではないかと想像しながら、固い寝台の上で読んでいくうちに、信じられない異常な世界に頭がくらくらし、いつしかすがりつくように読んでいる自分に気づいて、笑いたくなった。 『兄にらいの症状がではじめたときのことは、今も憶えている。 高山文彦『火花 北条民雄の生涯』〈ノンフィクション・シリーズ"人間" 9〉、2012年10月。 その作家の死に際しても、私はその遺族は存在せぬこととした。 「はははあ、紋ちやん心配するなよ。 こういった中で、精神を病んだ不幸な人々であった。 「わたしはね、あんたみたいに大きくなつてここへ来たのぢやないの。 収録:いのちの初夜, 間木老人, 望郷歌• 死んでいますとも、あなたは今人間じゃあないんです。 当時は不治の病とされたハンセン病の診断を受け、19歳で療養所での隔離生活を余儀なくされた北條民雄。 しかし、人としてその作家を買いかぶった者は、実は世間に一人もなかったのだ。 命だけがびくびくと生きているのです」。 読者に憐れみを請うてはいないし、病が進行して腐れた患者の描写も、厳しいの一言に尽きる。 【目次】(「BOOK」データベースより) 小説(いのちの初夜/間木老人/癩院受胎/吹雪の産声/癩家族/望郷歌/道化芝居/青春の天刑病者達/癩を病む青年達)/掌編・童話(童貞記/白痴/戯画/月日/可愛いポール/すみれ)/随筆(癩院記録/続癩院記録/発病/発病した頃/猫料理/眼帯記/柊の垣のうちから/烙印をおされて)/書簡(川端康成との往復書簡(九十通)/中村光夫宛(六通)/五十嵐正宛(一通)/東條耿一宛(四通)/光岡良二宛(一通)/森信子宛(一通)/小林茂宛(五通)) 【著者情報】(「BOOK」データベースより) 北條民雄(ホウジョウタミオ) 1914・9・22〜1937・12・5。 川端さんの小説の心酔者だ。 しかし、そんな自慰に甘え切れる道理のない憂悶を故人は懐いていた。 強い自我を曳きすり廻して、いかに生くべきかと探りよろめく人間だった。 1931(昭和6)年には「癩予防法」が制定され、この法律によりすべてのハンセン病患者を療養所に隔離できるようになる。 今までにも書いたことのないのは勿論、また今後も決して書くまいと思っている。 種々の職業につきながら学び、左翼思想に近づく。 場所が場所だけにつらかったと思う。 作品中に何度も出てくる、人間という存在を越えたいのちそのものがここにいる患者たちだ、という言葉が、終始心を貫いて離れない。 本名は死後も非公開のままだった。 この民雄の言葉は痛いほどに理解できる。 創作活動が失明を促すと分かっていながら、心の想いを表現せずにはいられなかったのだろう。 本書のあとがきも川端康成が書いています。 なんで人間ってイヤなことは忘れようとしてしまうんでしょうね。 死人の骨からもうつると恐れられていた癩の療養所に、それもあの慰安所に、よくぞ来てくださったものだと。 その性格の尖鋭さ故か、全生園の医師に「人間性ゼロ」とまで酷評された北條だったが、当時、深刻な伝染病とされたハンセン病の特効薬が存在しなかった状況下にあって、盲目への恐怖による眼科への通院の常態化など、治療全般に及んで様々なクレームをつける北條の個人主義の目立った尖りは、医療サイドから見れば、我が儘な患者と看做されても不思議ではなかっただろう。 いつもの彼とは容子が違う。 線香工場の自分の部屋でした』 カルモチン自殺を試みたのだが、ぜんぶ吐いて死に切れなかった。 ここに、川端康成が遺したリアルな報告がある。 」 彼女はうつむいて藁の一本を、幾筋にも引き割いて、びりびりといはせた。 復活そう復活です。 癩は遺伝ではなく伝染だということがまだ一般によく徹底していない。 女のわたしにはよくわかりませんが、当時徴兵検査を受けなかったら、人間失格というような感じでしたから。 「あんたは、わたしをばかにしてるのよ。 「うむ。 「『十六歳の日記』は、この老人を見詰める観察記録である。 劇的な訪問だ。 その才能が外部社会の文化フィールドで認知され、著名な作家の後ろ盾を受けることで、その自我の尖りは、堅固な秩序に対して対抗的な空気を醸成していった。 収録作すべてがハンセン病を患った自分の視点や他の患者の視点から綴られていて、療養所内で目の当たりにする人間模様や「いのち」についての葛藤が描かれている。 それを求める仲間がいて、助ける者がそこにいる。 その生命を何のために自ら。 ここに、祖父を看病する「十六歳の日記」の中で書かれた、彼の吐露がある。 (この病気は、さほど感染力が強くないのです。 ああ、だが今の僕にどうして彼の死を思いとどまらせることが出来るのだ。 北条民雄という人がどのような人間で、どのようにして作家として誕生したか、丁寧な取材と文献研究で見事に浮かび上がってくる。 二人の間の書簡は90通を超える。 その辛抱強さ、意志の強靭さは驚くばかりであった。 言語新字旧仮名• 『文学界』の創刊の翌年、川端さんの家の近くを、一人の青年が影のようにさまよい歩いていた。 紋吉は気づかぬらしく、小心さうにもぢもぢとしてゐたが、間抜けた調子で、 「散歩ですかい。 「お盆が来た。 孤高の天才作家の、魂の軌跡を辿る。 『ここが自分の住む世界である。 時々その煙つた中から若い男や女の声が聴え、やがて野村の限界に黒い斑点となつて現はれると、今晩はと声をかけて再び乳白色の中に消え去つて行くのだつた。 投稿者: 読ん太 - 元ハンセン病患者やその家族らが国家賠償請求訴訟を起こしているというニュースを時々見かける。 対照的なのが志賀直哉。 自殺を覚悟するとみな一種の狂人か、放心状態に陥る。 」 と彼女は小さな声で、だがはつきりと言つた。 加えて、彼は文芸サークルにも積極的にアクセスし、そこで自分の才能の限界を感じつつも、もう一つのアイデンティティを確保することで、その閉鎖系の空間を「終の棲家」と読み替えていったのである。 一癩作家を離れて言っても、この二つの心理を人並みより少し誇張する性癖から、芸術の美は耿々(こうこう)と発するのかもしれなかった。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったのです。 小学校六年のころには頬に盛り上ったような赤黒い斑点ができていた。 闘病生活のなかで文学に情熱を傾け、以後彼の作品は、師と仰いでいた川端康成 やすなり の手で諸雑誌に発表された。 俺がゐるから羞しがつたのさ。 彼は自分の能力の及ぶ限り、もうその底はない状況に追い遣られた同胞をサポートし続けた。 これとて、市民の一人として不作為の過失と断罪されていい。 (2017.04.14) @2度目の豆苗 弟作。 その一人。 我々の書くものを癩文学と呼ぼうが、療養所文学と呼ぼうが、それは人々の勝手だ。 昭和9(1934)年、療養所に入院し、この頃から創作に専念する。 紙の本 文学が生まれた背景(社会)を知ること。 もちろん『北条民雄』はペンネーム。 生涯 [ ] 1914年9月、の首都京城(現・)に生まれる。 病気に、運命に 療養所に行くと、いわゆる普通と呼ばれる人たちに会うことがとても限られてくるからこその 「無精に人間が恋しくなる」 に心を打たれたのでありました。 菅直人厚生大臣の謝罪を覚えている人も多いだろう。 過去の健康的な自分は、現在の自分に自信を持たせ目の前の壁を乗り越えさせる一面もあるが、見方を変えると、現在の自分の虚無を増大させるものにもなる。 投稿者: 楓 - 自らの壮絶な人生と独特の生命観を綴った『いのちの初夜』でベストセラーを生み出した作家・北条民雄。 僕自身何かの折に幾度も言ったではないか。 [経歴・人物] 日本統治時代の朝鮮の首都京城 けいじょう、現・ソウル に生まれ、徳島県阿南市下大野町に育つ。 に結婚。 患者作業といって軽症者は強制的に付き添い、運搬、火葬、などの作業をさせられた。 」と叫んで腰をかがめると、注意深く霧の奥をすかし出した。 『いのちの火影 北条民雄覚え書』、1970年7月。 尾田さん、決して人間じゃありません」 「人間ではありませんよ。 早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもは一寸触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。 北條のすべての小説(完成作品)を中心に、川端康成や中村光夫と交わした数多くの書簡、一部の未完小説と随筆を収録。 青年は川端さんの家の戸をついにたたかずに去っていった。 さういふ状態になつて自殺するのは決して自殺とは言へないんだ。 」 と口に出して言つた。 生命そのもの、いのちそのものなんです。 父はこの手紙を、以前北条から届いた古封筒に入れ、田舎へ持ち帰って、近親知己たちに息子が東京で働いているうちに急病で死んだことを言いつくろうというのである。 山々の明るい下田の海が近づいていたからだった。 絶望の淵に立ちながらも、彼が川端康成に宛てた手紙によって文学への道が開かれる。 (新字旧仮名、作品ID:46969)• あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。 (「伊豆の踊子」より) この文が、「孤児根性」という言葉の含みを全て語っているだろう。 川端さんからの激励は、青年に生きて書き続ける希望を与えた。 子どもであっても容赦されず、病気撲滅のため、男は断種され、妊娠した女性は堕胎を強いられた。 そして例のやうににやにやと笑ふと、ひとつ風景でも眺めてみようと思つて、棚の中程で腰を跼めて見たりするのだつた。 何処からこんな力が出るのか分からない。 二十歳の私は自分の性質が孤児根性でゆがんでいるときびしい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。 著者の没後、全集の編纂にあたった川端康成は「無慙な運命に夭折の天才の文章を出来るだけ多く世に遺すのは、私のつとめであり、全集編纂者の習はしである」(底本「上巻編纂の辞」より)との考えに基づき、未発表の未完成小説も全集に収めた。 そして人間は、本質的に逞しい肉体と美しい精神を同時に欲望する。 でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。 そうして孤独な青年の遺体に花を飾った。 しかし、患者の病状も性状も、医者には職業の秘密のはずですがね』 その医師は同じような文章を再三書いた。 私は本書を読んで、自分が健康体であることを、心から有難く思った。 同年、川端康成に師事。 」と言われる歓びに自信を回復していくことで、少しでも新たに立ち上げる自我を手に入れた実感が瑞々しく表現されていたのである。 「この野郎、全く気色の悪い奴だ。 」 とたんに野村はぶつかつて来る女の体の重みを胸に感じ、思はずよろけさうになる足をふみしめると、続いて女の冷たくなつた頬と濡れた唇とが折れ重なつて被さつて来た。 (新字旧仮名、作品ID:46901)• 癩家族 (新字新仮名、作品ID:2530) 関連サイト. このことに対して民雄は、『私は癩文学などいうものがあろうとは思われぬが、しかし、よし癩文学というものがあるものとしても、決してそのようなものを書きたいとは思わない。 著作権状態パブリック・ドメイン 『青い焔』の全文 第一章 霧の深い夜が毎晩のやうに続いた。 俺は一体どうしたらいいのだらう、やがて盲目になり、生きながら腐敗して行くこの肉体を抱いて、俺はまだ生き続けて行くつもりなのだらうか。 』と私は苦笑した。 書籍名定本 北條民雄全集 上巻• 近視が酷くならないように、目を酷使しないようにしようと思うようにもなった。 T3年に生まれた彼は、19歳でハンセン病を発病。 ハンセン病に関する正しい知識が無かった頃は、患者が「区別」されても仕方が無かったのかもしれない。 死者の骨からも感染するといわれていた時に、だ。 「ああ、今晩は。 死ぬまでに一度でいいから社会の風にあたりたいの。 そしてまた、祖父が死にそうに思えるからこそ、せめてその面影をこんなふうに日記にでも写しておきたいと思っていたのでした)」(『十六歳の日記』より 注:括弧内は二十七歳の時に書き加えた説明、「伊豆の踊子・温泉宿 他四編」川端康成作 岩波版ほるぷ図書館文庫) 「日記が百枚になれば祖父は助かる」という思いは、千羽鶴の発想と言っていい。 彼の冷たくなった死顔を凝視(みつ)めて、私は何かしらほっとしたものを感じた。 途中、ところどころの村の入り口には立て札があった。 その川端が記録した貴重な証言を、更に、「寒風」からの長い引用の中で確認したい。 当時はハンセン病の特効薬も無く、感染した人間は、人間であることを捨てさせられ、身体が腐ってゆくのを、ただ見ているだけしかなかった。 それは身を切るやうな、骨の髄まで冷たく凍るやうな孤独なのである。 人にも黙っていた。 しかし志賀直哉を責められる人も少ないと思う。 どこまでも転がり落ちて、最後は民家の屋根の上に転落した。 まして故人は癩という重荷を負っていた。 この自我が川端文学の骨格を作り上げ、そこで作り上げられた川端文学の円熟化に伴って、川端康成という固有の自我もまた成熟していったに違いない。 ハンセン病療養所は一般社会に較べると、はるかに男性上位であったという。 2 「苦悩していたのは自分だけではない」 多磨全生園 そんな東條もまた、この全生園で若き生命を閉じることになるが、彼が生前に残した詩集がある。 ここで対話する二人は北條の分身であると言われるが、同時に、彼がその短い生命を終えた全生園(東村山市にある「国立療養所多磨全生園」のこと)で知り合った、一人の若者をモデルにしたとも考えられる。

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